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i lマ シ ュ ウ ・ ボ ウ ル ト ン の 場 合 | |

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(1)

論 文 イギリス産業革命期の企業構想

i l

マ シ ュ ウ

・ ボ ウ ル ト ン の 場 合

大 河 内 暁 男

第一節

産業革命と企業者の企業構想

一八世紀後半のイギリス産業界においては︑

l期までの歴史ではまったく存在しなかったよう

な︑あるいは知られていなかったような︑さまざまの新らしい技術と新種の産業が矢継ぎ早に登場して︑いわゆる産

業革命が遂行されることになった︒しかもイギリスの産業革命は世界史上で最初の産業革命であったので︑ここに登

場してくる新種の技術なり産業なりの受け入れ方やその影響については︑全社会的に経験も予備知識もない状況にあ

った

ので

ある

それでは︑当時の企業者たちがこうした新技術や新産業をしゃにむに出現さぜたのは︑一体なぜであろうか︒そじ

(2)

て︑このような革新を導き出した企業者たちは︑この事態をどのように受け止めて︑どのように対応していったので

あろうか︒経営史の観点からみるならば︑この時期に新種技術や新種産業がイギリスの産業界に定着してゆく過程

一路近代的工場制経営の展開を目指す企業者活動によって率いられたも

のではなかった︒むしろ反対に︑個々の企業者たちの各人各様の暗中模索とさまざまな試行錯誤の連続の歴史であっ

たと言う方が︑実態に近いように思われる︒ は︑通例想像されているごとく単純明快に︑

一八世紀後半に至って革新的新技術や新種産業がにわかに続出した背景は︑これまでの経済史研究の成果から約言

すれば︑つぎのように言って差支えなかろう︒すなわち︑一八世紀前半までのマニユファクチャl期における技術的

ーの

成長

︑ ほぼ一七三

0

年代ころに極限状態に到達しており(その一つの指標として結合経営形態のマニユブアクチャ

工業企業による地方銀行の設立などてそれとともに︑マニユファクチャl技術ではとうてい打開できな

成熟

は︑

い生産上のさまざまの陸路(たとえば繊維工業における周知の糸不足問題︑金属工業における鉄不足問題︑さらには

輸送手段の不足問題など)が︑深く浮き彫りにされつつ︑数十年間のいわば技術的醸酵の期間を経て︑

一七

0

年 代

ころからマニユフアクチャーを止揚するような新技術新種産業が一斉開花したのであった︑と︒

とこ

ろで

一八

世紀

の前

半︑

マニユフアクチャl経済の欄熟期とも言える一七三

0

年代ころになると︑企業活動の

マニユフアクチャl経営主や独立経営を目指す熟練職人たちは︑各人各様にさまざまの生

産技術を工夫し︑開発し︑改良し︑そうした新技術新工夫を基礎に︑それぞれさまざまの方向を求めて白からの企業

(3 ) 

活動を展開しようとする傾向︑そうした活動を志向する風潮が目立ちはじめていた︒このような傾向風潮そのもの 一つの特徴的傾向として︑

t

一面で︑当時のいわゆる社会的対流現象の存在とあいまって︑広汎な企業機会があったことを示すものであり︑

(3)

来たるべき産業革命期に草新的技術が続出するための社会的基礎を形成するものであった︒だがそれとともに︑他面

で︑こうした現象の意味するところは︑当事者である個々の企業者の立場からの観点として︑つぎのようにも理解す

ることができよう︒すなわち︑マニユフアクチャ!の技術がすでに極限にまで到達している状態のもとで︑さらによ

り一層の企業活動を展開するためには︑これまでの経験的技術や単なる改良程度のものでなくて︑何らか一段の飛躍

せるものを求めて﹁何かしなければ駄目だ﹂ということが広く社会的に知覚され︑かつ一部の人々がその知覚を意識

にまで昂めて︑具体的な行動をとりはじめていたことを意味している︒

(4 ) 

たとえばジョン・ワイヤットのように︑あるいはジョサイア・タツカーのように︑けれども人々の意識や行動は︑

新生産技術たる機械の生産力と経済的効果を意識するという方向に照準を定めたものもあれば︑ジョサイア・ウエヅ

ジウッドのごとく革新的販売技術の工夫という方向を選ぶ者もあり︑あるいはひたすらに大規模生産という方向を追

求する者もあるという工合であって︑選択の方向も多様をきわめていた︒いかなる方向に白襟を定めて現マニユフア

クチ

l体制から脱皮をはかるかということになると︑現状の認識知覚から企業活動の将来を構想する企業者たち

は︑各人各様に暗中模索していたのであって︑はじめから工場という技術と経営形態を構想していた者がいたかどう

かは疑問であろう︒

( 1 )

この

点に

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三井

文庫

論叢

﹄創

刊号

﹀を

参照

( 2 )

詳しくは拙者﹃近代イギリス経済史研究﹄第四章︑拙稿﹁市民草命以後におけるマニユフアクチャ!の成長﹂(大塚久雄

他編

町西

洋経

済史

講座

﹄第

二巻

﹀な

どを

参照

(3 )

前掲

拙著

︑第

四章

第三

節を

参照

(4)ジョン・ワイヤットは︑紡績機械を使用すれば手紡車に較べて必要な労働を三分の一だけ減らすと算定して︑﹃かくて織

一 一

(4)

一克

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ところで︑イギリスでは︑ほぽ一六世紀半ばから一八世紀半ばに至るまでの二世相問︑研究史上のいわゆるマニユ

ファクチャl期に︑産業経営はマニユフアクチャーという経営形態を出現させて︑小工業にくらべれば大巾な労働生

産性の上昇と生産力の増大とを実現させてはいた︒しかしながら︑生産技術の基礎が人間の筋力に依存する手工業技

術である以上︑産業活動は︑その巧妙さにおいても︑力の大きさにおいても︑速度においても︑人聞の筋力をもって

直接に可能であるような限界を有していたことは苔めない︒そして︑こうした手工業技術が産業活動の大枠として前

提されていて︑それからの飛躍が社会的に意識されないでいる限りは︑旧来の企業活動の環境を破壊してしまうよう

な革新的技術は現われにくいし︑またたとえ革新的技術が現われても︑それは散発的現象にとどまらざるをえない︒

しかもマニユフアクチャl期のイギリスについては︑さらにつぎの事情を考慮に入れる必要がある︒すなわち︑社

イギリスの国内市場は一七三

0

年代ころにいちおう単一の統一的国内市

(6

場たる姿態を整えるに至ったと君倣してよいのだが︑それ以前の時期には︑園内市場そのものが全国的に統一されて

(7 ) 

はおらず︑地域的自立性を多分に帯びたいくつかの市場圏に分れていたという事実である︒このような地域性をもっ 会的分業の状態や価格構造の観点から見て︑

た市場構造にあっては︑たとえある一地域の一産業に何らかの革新が生じたとしても︑その効果が直ちに及ぶ範囲は

眠られた一地域内にとどまってしまうのであって︑したがって革新が全国に伝播する速度もきわめて遅々たるもので

(5)

あった事情も︑またそうならざるを得ない理由も︑了解しうるであろう︒こうした状況のもとでは企業活動の環境が

急変することは稀であるから︑企業者たちは何よりもまず従来の経験に基づいた思考と行動を尊重することになり︑

またそれで企業者としてその地位を十分に築き保ち得たのであった︒その意味で当時の企業者活動は一般的に言って

経験主義的であったと特徴づけることができよう︒

ところが一七三

0

年代とろともなると︑ささにも述べたように︑マニユフアクチャーとしては技術的にいちおう行

きつくところまで行きついた欄熟状態に達し︑市場構造の側面からみても全国的に単一性を備えた国内市場を出現さ

せている︒そればかりではない︒イギリスの産業構造全体としてみると︑たとえば糸不足や鉄不足といった構造的髄

路があちこちに目立ち始めている︒したがって従来からの手工業的生産力を基礎としている限りは︑経済的発展をよ

り一層押し進めることはきわめて困難になってきているのであった︒このような状況の中に置かれた企業者たちの多

くは︑もはやこれまでの伝統的経験主義的思考と行動による企業者活動では企業の願調な維持発展に不十分であるこ

と︑それに代って新たな思考と行動がとられねばならないことを知覚し︑経験主義的企業者活動からの脱出を孟識し

て行動を開始したのである︒しかも︑こうした知覚︑意識︑行動が大量現象として︑社会状況として︑出現したこと

の意味は十二分に重視されねばなるまい︒

けれ

ども

マニユフアグチャl期の従来の事情とは変ったこの新情勢にどのように対応すべきか︑企業者自身の主

観的判断としていかなる途を志向選択すべきか︑それは未知のことであった︒しかも︑こうした未知の企業活動の方

向を求めて各人各様の模索がおこなわれた末に︑その成果の一つとして︑一八世紀後半に入ってさまざまの産業分野

に新技術があいついで生み出され︑また新種産業が出現しはじめた時︑それらの影響は単に地域内当該部門的のみに

(6)

/

留まることなく︑直接間接にイギリス産業界全般をおおうものとなり︑その出現と他への影響波及の速度は従来とは

くらべものにならない急速さを示した︒そこで︑一八世紀後半に入ると︑企業者たちは︑このような急速な︑多方面

における︑しかも指向方向が確定的に保証されてはいない新事態の出現に対してJ﹂れを敏感に知覚し︑対応しつつ︑

そのなかから白からの進展方向を機敏に構想してゆかなければならなくなる︒それは︑従来の企業者にあっては︑か

って直面したことのない企業環境であり︑要求されたことのない企業者性能であったと言って差支えあるまい︒

まさにそうであるからこそ︑乙の新事態の環境と時点において︑その事態から企業活動の進路を知覚し︑白から創

出するなり他から興えられたさまざまな可能性の中から意識的に選択して︑企業活動の将来を構想する生身の企業者

の性能が︑企業経営の扇の要の問題としてクローズ・アップされてくると言わねばならない︒本稿では︑イギリス産

業革命期の代表的企業者の一人とされているマシュウ・ボウルトン冨

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図︒己件︒ロについて︑彼が一介の装身

金具製造業者から身をおこして蒸気機関製造業へと企業活動を展開してゆく過程を︑可能な限り彼の置かれた環境立

場にたち帰って︑彼が事態をどのように知覚していかに企業経営を構想したか︑そして現実の企業活動とこの構想と

はどんな関連があったのかを跡づけて︑もってこの時期の企業者活動の基礎過程を多少なりとも明らかにしてみよう

と思

う︒

(5)この点については一六世紀イギリスにおける早期産業革命

2

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や明治期日本の殖産興業の過程

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(6)

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経済

思想

﹄第

一章

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二章

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︑前

掲拙

著︑

第二

章お

よび

第三

章を

参照

(7 )

大塚久雄古岡昭彦﹁リlランドの﹃紀行﹄に見えたる当時の社会的分業の状態

11

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参照

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第二節

マシュウ・ボウルトシの大量生産構想と

ボ ウ ル ト ン 日 フ ォ ザ ギ ル 商 会 の 経 営

マシュウ・ボウルトン(一七二八

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一八

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九)が金属製バックル製造業で収めた成功を基礎に︑パlミンガムの郊外

ソホ

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ぎにかの有名な三階建の一大作業場!!?いわゆるソホウ製造所

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の建設を開始し

たのは一七六一年のことであった︒彼はパlミンガムのスノウ・ヒルにあった父のバックル製造所で一七才の左きか

ら実地教育をうけ︑二一才で父の事業の共同経営者としてバックル業界に登場した︒そしてその後一

O

年を経て父を

失なったころには︑彼は自分の企業をパlミシガム地域のバックル業界のなかで指導的地位にまで育てあげており︑

このことは︑バックル製造が時流の業種であったとはいっても︑彼が敏腕の企業者に違いなかづたことを十分に示し

てい

る︒

ところで︑当時のパlミンガムの製造業者にとっては︑経蛍形態としてマニユアアクチャ

l

(分

業 に も と づ く 協

業)が小工業にくらべて有利なものであることは周知の事実であった︒数十人の労働者を一"作業場に集めて︑大々的

な分業にもとづく協業体制をもった金属マニユフアグチャーが︑この辺ではごく普通の経営形態であったし︑時にそ

(9 ) 

の協業規模は数百人にも達していたのである︒たとえばジョン・テイラーの製造所では金属製ボタγだけで毎週金額

にして八

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ポンドもの生産がおこなわれていたが︑この吋ボタンは七

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の異なった群の職人たちの手を経て七

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(8)

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八一七五五年)といわれている︒こうしてコパlミγガムの製造業者は︺ボタンその他あらゆ

るものを作るに際して︑同一労働者を用いるのではなく︑できるだけ多数の労働者の手を通すように細目に分けるの

だ︒彼らは︑人間の能力というものが同じことをのみ反復している場合の方が︑

( )

る場合よりも︑はるかに敏速かつ確実になるものだということを熟知している﹄のであった︒ つぎからつぎへと異なったことをす

ボウルトンが父の代からのスノウ・ヒルの作業場に代えて︑ソホウに一大作業場を建築しようとしたのは︑およそ

このような一般的状況のもとにおいてであった︒ボウルトンは後年に作業場新築の動機をつぎのように述べている︒

﹃六一年一月ごろ︑私はパlミンガムにできるだけ近い場所で︑水車を使って︑パlミシガム金物や金属製小装身

具類を各種製造する計画を練っていた︒そこで私は︑パ1ミンガムからおよそ一マイル半のハンズワIス教区に土地

と権利とを持っている

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氏から年五六︹ポンド︺で(一

00

年間)賃借権を得ているエドワード・ラストシに話

を持ち掛けて︑:::彼の賃借権を︑彼がおこなった土地改良を全部含めて︑一

0

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ポンドで買取った︒水車場がこ

の取引の唯一の目的であった︒:::この年六一年の夏七月ころ︑私は必要な職人と木材や煉瓦その他を整えたので︑

職人の住居を幾棟かと多数の仕事部屋を備えた大きな建物を一つ建てはじめた︒また︑水車は古くなっていて私の新

計画にそぐわなかったので︑この古い水車は取り壊すのが一番都合がいいし良策だとも思って︑これを取り壊して作

( )

しかしこれらの建物は年内(つまり一七六一年﹀には完成しなかった﹄︒

り直

した

こうしてボウルトン自身の言葉で明示されているように︑彼は︑当時の産業界においてすでに共通の認識となって

︿ 臼

いた大作業場での集中的大量生産方式を︑金物と金属製装身具製造業で実施しようとしたわけである︒だが︑この計

画を実施するためには︑金属を裁切したり研磨したりするのに用いる水車動力が必要であったが︑スノウ・ヒルの作

(9)

業場はこの水車の便を欠いていた︒この事情が︑

( )

スノウ・ヒルの作業場が手狭になったことと並んで︑ボウルトンを

して水車場を求めてソホウ製造所を建設する決心をせしめた最大の理由であったように見受けられる︒したがってボ

ウルトンはとの時すでに︑自からの必要に迫られて︑作業機の動力源が産業経営にとって重要な問題であるこ左を少

なくも認識はしていたわけで︑との点は︑後年に彼が蒸気機関製造に進出する場合の企業構想の要素に連なってゆく

ものとして︑注意しておく必要がある︒けれども同時にボウルトンが新作業場で大量生産をしようと考えていたもの

が︑それまで製造していたような伝統的な︑しかもどちらかと言えば高度な熟練をほこる脊修的流行的な金物と金属

製装身具の類であったことも︑見逃してはならない︒

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(9

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lミンガム地域の金属工業の経営形態については︑詳しくは前掲拙著第四誌を参照︒

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ところでソホウの大作業場が完成するに先立って︑その建設中の一七六二年に︑ボウルトンは貿易商ジョγ

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1シヅプを結んで︑ボウルトンHフォザギル商会を設立し︑ボウルトンは製造と国内

( 日 山 )

フォザギルはとくに輸出を受け持つことに業務分担を定めた︒だがこのパートナーシップは︑向販売に責任をもち︑

L

(10)

少なくも現存の史料から知りうる限りでは︑大作業場建設計画にはなんら織り込まれていたものではなかった︒ボウ

ルトンは︑このパートナーシップ結成の事情をつぎのように述べている︒

﹃六二年一月に私はたまたま所用あってロンドンに出向いた︑が︑その折:::フォザギルがロンドンにやって来て︑

私とパートナーシップを結ぶことを申し入れてきた︒当時私は気が進まなかったが︑再三再四彼自身や彼の友人たち

が頼みこんでくるので︑私は申し込まれたマシュウ・ボウルトンUフォザギルの共同企業に同意した︒そこで連日パ

フォザギルは︑私の優れた技術と私が必然的に負わなければならない企

( )

業負担がずっと大きいことを考え併せて︑等額の出資をするが利益は三分の一だけでよいと私に語った﹄0 ートナlシップの条件について話しあった︒

ボルウルトンとフォザギルの関係がこのように一方的なものだったのかどうか︑右の記述をもって直ちに断定して

しまうことはできない︒しかし両者の結びつきが︑ソホウ製造所建設を含めたボウルトγの計画的行動ではなかった

こと

は︑

ほぼ確かであろう︒したがって︑この限りでは︑大作業場で大量に生産されるはずの金物や金属製装身具を

どうやって販売するつもりであったのかという点について︑ボウルトンが最初から確実な見透しなり構想をもってい

たとは看散しがたい︒だがともかく﹃ボウルトンとフォザギルは︑一四年期限でパートナーシップを結ぶこと︑計画

されている事業に用いるためにボウルトンが建設した建物︑水車︑およびすでにボウルトンの手持ちで事業に用いら

れる原材料のすべてもボウルトンの出資金の一部と看倣すこと︑パートナーシップは来る一七六二年六月二四日から

( )

始まること︑について互に同意した﹄o

こうして︑大量生産体制とそれに見合う販売体制とをもって︑ボウルトンH

フォザギル蕗会は比較的順調な営業活動を開始することになった︒

一七六二年に使用を開始したソホウ製造所では︑金属製品を﹃各種製造する﹄というボウルトンの計画がつぎつぎ

(11)

ボタ

ン︑

に実施され︑従来からのバックルの他に新規製造品目としては︑主要なものだけを拾っ℃みても︑鋼製高級装身具︑

( )

シェフィールド銀ばり製品︑銀器︑オルモル︑時計︑等々が六

0

年代のうちにあい次いで手懸けられた︒ボ

ウルトンHブォザギル商会の営業は順調に発展し︑その取引先は︑ブォザギルの努力によって︑パリはもちろん︑リ

(

)

ヨン︑マルセイユからロシア︑スェlデンにもおよび︑売上げも一七六三年の七︑

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ポンドから一七六七年には

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一七六三年末に計六

0

ポンドにも達した︒この間ボウルトンとフォザギルの投下資金額は︑

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トの利子を支払ったうえに︑利潤分配金として一七六五年には四

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( )

一七六ポンドを分配しえた︒ 一七六七年には二一︑六五七ポソド余へと倍加し︑利益は︑出資金に対して年々五パl

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一七六六年には一︑九

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五 ポ ン ド 余 ︑

一七六七年には二︑

のように記している︒ こうして成長を続ける商会のソホウ製造所の有様を︑

﹃一七六七年にスモール博士が私をソホウに紹介してくれたが︑その折ボウルトン氏は不在だ 一七六七年初めてここを訪れたジェイムズ・ウォットはつぎ

った︒彼の共同企業者フォザギル氏とスモール博士が製造所を案内してくれた︒当時そこで作られていた品物は︑鋼

メツキボタン︑変りボタン︑鋼製時計鎖︑万のつか︑各種メツキ金属器︑オルモル製装飾品︑べっ甲象眼

前吹

煙草

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鋼象

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lスメタル製ボタン︑その他さま.きまのものだったが︑いまは覚えていない︒ボタンやその他

製ボ

タン

メッキ品用の箔を作ったり︑銅製品を研磨し磨きあげるためのラてフ盤を回転させるために︑水車一基を備えた水車

場があった︒ボウルトン氏は当時バックル金具製造も大々的にやっていたが︑その製造に彼はさまざまの大変優れた

改良をほどこした︒水車場のラップの他に︑鋼製飾りボタンや鎖や刀のつか等々を切削したり磨いたりするために︑

手廻しの精巧なラップや︑未仕上︑げボタンその他小金属口聞に光沢をかけるためのボウルトン氏の考案になる水車動力

(12)

( )

による研磨箱などがあった﹄

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ボ ウ ル ト ン が ソ ホ ウ 移 転 の 最 大 の 動 機 だ

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た 水 車 動 力 は

︑ こ う し て 少 な く も 移 転 五 年目にはすでにさまざまに活用されて︑各種金属製品が大々的に製造されるにいたっていたのである︒

(お﹀ブォザギルについて詳しいことは不明である︒スマイルズは﹁フォザギル氏は極く僅かの資金しか持っていなかったが︑

性格の良い人物で︑仕事熱心にして外国市場についてかなりの知識を有する﹂(スマイルズ︑前掲書一六九頁)と評し︑ロウ

ルもスマイルズの意見を踏襲している(ロウル︑前掲書七頁)が︑ディキンスンは﹁企業心に乏しく︑どちらかと言えば金に

きたない人物

L (

ディキンスン︑前掲書四五頁)としている︒なお︑フォトギルと発音する人も多い︒

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ド余の赤字を計上している︒これはボウルトンHフォザギル商会創業以来の累核赤字総計額と推定される︒これに対して︑利

子と利潤分配金を合計すると一七六六年までに四︑一一四六ポンド余となり︑この年までで当初の損失を完全に埋めあわせてい

(13)

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人と称される大規模なものであったが︑さきに述べたように︑ボウルトンはここでボタンやバックル

のほか︑装飾的金物や装身具など︑どちらかと言えば脊修的色彩の濃い小金物類の多品種多量生産をおこなおうとし

ていた︒この点はソホウ製造所建設にあたっての構想においてそうであり︑一七六二年以後の実際の営業活動におい

ても変りなかった︒このような製品分野は︑製造に高度な手工的熟練を要するものであって︑その限りではソホウ製

造所の技術水準の高きを誇示しうるものに違いなかった︒しかし流行に左右されがちの者修的金属製品市場は︑

リス国内たると国外たるとを問わず︑勤労大衆というよりは上流社会の購買力に依存するものであるし︑

ま た 加 え

て︑これら金属製品ば︑およそ技術面からも需要面からも︑大量生産に向いていないものであることは論をまたな

ぃ︒ボウルトンがこの点をどのように考えていたのか︑あるいは知覚していなかったのかは明らかでない︒だがボウ

ルトンの親友で︑ボウルンHブォザギル商会の経営に一時参加したジェイムズ・キア

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同巳円は︑後年つぎの

ように述べている︒

﹃さきに述べた諸製造部門の多くには多大の創意工夫と趣向と金とが注ぎ込まれているのだが︑それに相応した利

(14)

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益はあがらなかった︒しかし︑有形の利益というよりむしろ賛美感嘆の名声を得る︑という形で報いられた︒これら

の部門での損失が︑彼(ボウルトン││大河内)の製造所におげる看板商品となっていないようなさまざまの重要な製

口聞によって︑十分に埋めあわされていなかったならば︑この赤字部門は彼の資金をひどく食い荒してしまったに違い

ない︒:::たとえばオルモルの花瓶や装飾品は︑他の職人たちに対して︑洗練された趣味の見本を提供はしたけれど

も︑大衆需要を期待するには余りに高価す︑ぎ︑したがって市場見込生産の対象としては適していないことがわかった﹄︒

ボウルトンにとっては︑たしかに単に金銭上の収益だけが目的で企業活動をしていたのではなかったように見受け

られる︒彼はソホウで新たに着手した諸製造部門の製品を積極的に上流社会に売り込む努力をして︑高級工芸金属製

品の製造者たる地位を固め︑これによって自分の事業の定評を上流社会に確立させ︑もって︑キアが指摘しているよ

うに︑製造業者としての社会的名戸と威信とを得ょう左した︒このような企業者活動は︑ボウルトンの親友であった

製陶業者ジョサイア・ウエッジウッドがすでにおこなっており︑それで企業的成功を収めてもいるものであった︒す

ウエッジウッドの場合は︑王室御用ということを利用して上流社会にウエヅジウッドの商標を宣伝し︑また

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iスに製品のショウ・ルiムを開設して︑ここを上流人士の一種のサロン化することによって人々をひ

( )

きつけ︑高級陶器に対して安定した顧客層の大量開拓に成功していたのである︒ な

わち

ボウルトンがソホウ製造所開設にあたって構想していた事業内容が高級金属器や装身具であるならば︑その売込先

はウエッジウッドと同じく上流社会を第一目標とせざるをえないし︑この市場で名戸信用を得る以外にはボウルトン

日フォザギル商会の企業的成功もありえまい︒ボウルトンは︑妻の縁戚にあたるぶりザベス・モンタギュを介してロ

( )

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γの一千ロンに出入りして︑上流社会の人々に伝手を得る努力をした︒また︑ウエッジウッドの先例に類似性を

(15)

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ショウ・ル1ムをロンドンのベル・メルに開設し︑さらに︑当時パiミンガム地域ではもちろん︑全国でも

( )

屈指の建物のうちに数えられたソホウ製造所を企業宣伝のために活用して︑ボウルトンHフォザギル商会の威信昂揚

( )

を試みた︒この計画は成功して︑やがて﹃ソホウを訪れることが上流社会や著名外国人:;などの問で流行になった﹄︒

(叩叩﹀ボウルトンは﹃著名人の来訪を受けない日はない﹄と人に書き送っている︒こしてボウルトンは﹃王国のなかで︑身

(

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分において︑影響力において︑そして知識において︑傑出した人々の多くと面識を得た﹄のであり︑来訪者は︑ 求

めて

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lラγドなどからもソホウにひきつけられ︑これによってまたボウルトンHフォザギル商会の評判が高めら スペイン︑ドイツ︑ノルウェー︑デンマーク︑オラ

れてもいった︒しかもこうした上流社会との交流は︑たんに商会の宣伝に役立っただけでなく︑商会の製品について

( )

の需要の動向を知るための有益な情報源としても役立ったことは間違いない︒

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年には一雇傭労働者の数も七

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年から一七七一一一年にかけて︑ボウルトン日ブォザギル商会は経営不振に陥って︑財政的にも出資者をひどく苦しめる

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一七六八年末にはボウルトンとフォザギルの出資額は合計二二︑

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八九ポンド余支払ったものの︑損失金五三一ポンド余を計上せぎるをえなかった︒続く五年

間一七六九年から一七七二年にわたって︑支払った出資金利子は累計五︑二二四ポンド余になったが︑利益は一度も

計上されず︑毎年の損失金は累計六︑九四六ポンド余に達した︒一方︑出資金額をみると︑一七七二年末には二九︑

六一七ポンド余であって︑一七六八年末とくらべて七︑五九九ポンドほど純増加があったことを示している︒したか

(17)

って︑この間に︑企業からの出資者の受取り分たる利子五︑三一四ポンド余と︑企業への支払分たる出資額純増分お

一四︑五四五ポンド余との差額︑差引九︑二一二一ポンドほどが︑ボウルトンとフォザギル

( 必

に重くのしかかって来たわけなのである︒ よび損失金の負担の合計︑

ボウルトンはこの状況をつぎのように述べている︒﹃一七七二年には︑ボウルトンドフォザギル商会は不振にあえ

(MM)いわんや新規事業に金を投ずる余裕などなかった﹄︒日常の短いでいた︒携わっている事業のための資金も足りず︑

期的資金を調達する方法の一つとして︑ボウルトンHフォザギル商会は︑ロンドンの金物代理屈であった金物商兼手

形引受銀行家ウィリアム・マシユウズを利用して︑支払人をマシュウズとする為替手形を振出し︑マシユウズへの支

払は彼の手を経るソホウ製品の代金で清算する方法をとっていた︒だがこの取引も一七六五年以後は常にボウルトン

日フォザギル商会の短期借越が続いており︑

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ポンドに達する状態であった︒マシュウズからのこの借越額はボウルトンHフォザギル商会にとって明らかに危険信 一七七三年にはその金額も︑出資総額のおよそ三分の一にもあたる一万

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大河内﹀は一緒に事業の一部

について詳細な検討をおこない︑経営上大巾な修正が必要であることが明らかになった︒ボウルトン氏は私に彼の事 キアはこの点をつぎのように述べている︒

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業と取引についてさまざまの相談をもちかけた︒私は事業が金融上はなはだ窮状にあることに勘づいた︒フォザギル

氏は彼らの手形勘定額を告げたが︑それはまったく驚くべき数字であった︒私は会計帳簿に目を通したことはなかっ

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フォザギル商会の会計書記大河内)がこのフォザギル氏の数字をその通りだl

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こうした状況であるから︑ボウルトン日フォザギル商会は別途の資金調達をせざるを得なかった︒たとえば一七六

(18)

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九年にキアから年利五パーセントで一︑

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ポンド借り︑またロンドンのタスンなる人物から一万ポγド借入すγ

るなど︑このころ借入が続けられたのはそのためである︒しかしこのタγスンが一七七二年に急死して︑その貸金返

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済が迫られた時には︑商会は遂に資金繰り不能に陥ってしまった︒ボウルトγはこの窮状を打開するために自分の土

地を手放すことにした︒

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Hフォザギル商会が資金難に陥っている時︑私は︑みすみす損になるとわかっ

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てはいても︑自分の財産を売り払うことに跨陪しなかった﹄︒そして﹃一七七二年に私は自分が持っていたパキγト

ンの土地をダンガル卿に一五︑

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ポγドで売り渡した︒これによってあの事業(ウォットと共同の蒸気機関製造

企画を指す││大河内﹀をおこなうのに必要な資金の倍も四倍もの金を手に入れ︑しかもボウルトン日フォザギル商

会に多額の援助をしお︒こうしてボウルトンは商会に六︑

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ポシドを注ぎ込匂いちおう危機を回避したので

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一七六五年までにおよそ四︑

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ポンドの設備資金が投下され︑

は建物の拡張にさらに約二︑

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ポγドが投下されていたのである︒こうした作業場の拡張は︑この時期のボウル は一七六二年に完成してからのち︑一七六五年に

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Hフォザギル商会の事業内容からみて︑明らかに過大であった︒ジェイムズ・キアはつぎのように指摘してい

﹃事業は実際過去数年間にもわたって大きな赤字経営をやっている︒:::営なまれている事業の量にくらべて建

物も道具類等々も過大すぎる﹄︒ る ︒

﹃私はソホウに馬鹿でかい建物を建てたことの失敗

( )

を自分だけの所為にすろことはできない︒なぜならそれはフォザギルと同意のうえでやったことだったのだ勺 だがボウルトンに言わせれば︑

ところで︑このように作業場を拡援し生産設備を増加した結果は︑右に述べたような出資金残高の年々の急増とも

なったのであるが︑この経営膨脹政策は︑一面で︑旧来の経験主義的マニュファグチャl経蛍から︑水車を動力とし

て利用した一大作業場による大量生産という方向で︑脱皮を目指す努力として評価されるものではあろう︒けれども

他面で︑この膨脹政策が︑市場関係なり需要の予測をおこなったうえで︑計画的に推進されたものであったのかと間

うならば︑ボウルトγの構想にはそうした問題の知覚は必ずしも十分ではなかったのではないかと思われる︒この面

では︑ボウルトγのソホウ製造所構想は︑全体としてやや見当違いをやっていたと言っても差支えないであろう︒

この点をはっきり示してレる一つの例として︑ボウルトンの床置時計製造計画がある︒

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ている種々の有用かつ精巧を極めた金属加工技術をもった諸部門のうちで︑床置時計の製造こそはソホウで用いられ

ている技巧と科学的才能の巾広さ多彩さを最もよく示している︒従来個人の職人がそれぞれ独自に営なんでいたよう

十九

(20)

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な業種を︑機械の手を借りた大作業場で営なむようにすることをボウルトン氏は四六時中考えていたのである﹄︒

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γのペル・メルに開屈したクリスティの庖に一年近くも陳列されたあげく︑遂に買手がつく乙となく︑ボウル

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年代早々に精巧な二台の床置時計を作った︒だがこの時計は

トンは販売をあきらめてソホウに持帰った︒彼は述べて日く︑﹃ロンドンの趣味は下劣もいいところだ︒だから私は

私の二台の傑作時計を持帰って来てしまった︒私はこの時計を良識がすたれていない市場に出すつもりだ︒

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(閉山﹀でもすれば︑飛びついて買う者がでて来ることは間違いなしだ﹄︒ ソでは︑︺もし時報とともにジッグの曲でも鳴らし︑文字盤で競馬でもするような仕掛に

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高級床置時計の企業化に失敗したボウルトンは︑

の量産を試みたが︑ ついで親友スモール博士の発明になる新時計

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一七七二年までには︑財政的負担も加わって︑この企業化は放棄され︑置時計製造部門

は結局失敗に終ってしまい︑以後ふたたび取り上げられようとはしなかった︒こうした経過は︑要するに︑芸術的奪

修品的性格の床置時計をボタンやバックルと同じように大量生産大量販売しようとして︑結局市場を把みえなかった

ことを示していると言えよう︒

ソホウ製造所でこの当時生産されていた製品を一瞥するならば︑ボタンやバックルは別として︑右の床置時計のほ

かにも︑金属製装身具︑銀器類︑その他各種の工芸的金属器類などは︑いずれも︑単に生産に高度の熟練が必要なもの

であったというだけでなくて︑その用途はどちらかと言えば者修的であり︑上流社会の流行を追う技巧に凝った品々

であった︒ボウルトンはそうした製品分野での大量生産を試みたのである︒もっともこの選択はまったく無謀だった

とのみ断定はできない︒いったいこのような高綾金属器類は︑当時の金属工業界においては︑たしかにその製造に最

(21)

も高度な熟線技能と最も優れた才能とを必要とし︑また発揮もできるものであった︒その点で︑当時の金属工業界で

はひとかどの部門たる地位を占めていたバックル製造業で成功したボウルトンが︑新たな飛躍を求めて模索した時

に︑これら高級金属器や高度の技巧才能の証しともなる時計の製造は︑恐らく最も自然に思いつく︑そして実現可能

性の最も大きな︑さらに加えて製造業者としての誇りを最も満足させるに違いない業種であったと思われる︒しかも

このような審修的商品の顧客は︑誰よりもまず王室をはじめとする上流の人士であるから︑もしもこれらの人々の愛

顧知過を得るならば︑単に技能を誇る職人的満足感はもちろんのこと︑企業者としての社会的地位も少なからず昂め

られようし︑またその満足感を味わうことにもなるであろう︒げんにボウルトンは︑国王ジョージ三世および王妃ソ

﹃国王は一対の香炉:::等々を持ち出して米て見

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私は王妃や皇太子たちと二︑三時間ほども同席した︒::;私ほどの厚遇を受けた者はほかにおるまい﹄︒ フィアと席を共にしたことを︑つぎのように妻に書き送っている︒

ボウルトンのこの選択については︑

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つぎの事情も考慮に入れることが必要である︒すなわち︑経済力

においてようやく大陸諸国に追いつき︑あるいはこれを凌駕するに盃った一八世紀のイギリスでは︑上流社会に大

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陸旅行ハグランド・トゥア)が一つの流行となり始めていた︒この結果︑大陸先進諸国からさまざまの優れた美術工

芸口聞がイギリスに大量に持ち込まれる機運が作り出され︑これが言わば触媒になって︑イギリス国内でもそうした品

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々の製作製造が刺戟誘発きれ︑芸術熱が大いに高まるという状態にあった︒ウエッジウッドの高級陶器が高価にもか

かわらず大量に販売されたのもこうした事情を抜きにしては説明し難いところであるし︑またボウルトンが経蛍拡張

にあたって工芸的金属製品の大量生産という方向を選択した時の業界の状況もこうしたものだったのである︒そうで

あるならば︑ボウルトンの選択は別に不思議なものではな九て︑むしろ時流を知覚していたと言うべきであろう︒

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